ひとつの構造物を作り上げるには、発注する人、設計調査する人、施工する人など、多くの人々が参加しています。
参加する人の意志を統一する材料の一つとして、設計図面があります。
発注する人の希望する物、設計調査する人の意図や企画を、施工する人に間違いなく伝える一つの手紙のようなものと言っていいでしょう。
近世以前の日本では、大工の棟梁が設計する人であり、かつ施工する人でもあったため、詳細な設計図面は不要でした。
棟梁の思うがままに仕事が進められ、気に入らない注文をされると、プイっと怒って帰ってしまう棟梁もいました。
現代でも大工の棟梁に弁当や酒を振舞いますが、このころの名残りなのでしょうか?
幕末になって、外国人技師が自分の設計意図を伝えるために描いた設計図面が、西洋文明とともに、製図文化を日本に伝えました。
その後、日本人の技師達は、こぞって設計製図を勉強し、製図道具を使いこなして図面の表現に熟練していったのです。
さて、明治の製図風景はといえば、製図板に紙を密着させるため、水張りといって、まず紙をぬらし製図板にすばやく貼りつけることから始まります。
紙が乾くまでに時間がかかるので、瞑想しながら構想を練る者や、暇つぶしに遊びに出かけてしまう者もあったようです。
のんきな時代ですね。
設計図は鉛筆で描かれる場合と、鉛筆は下描きで烏口(からすぐち)で清書する場合がありました。
青写真の原図は、鉛筆で書かれた図面の上に薄をのせて、トレーサーが烏口でトレースしました。
薄美濃紙(うすみのがみ)を通して透けて見える下の原図を、きれいになぞったわけです。
美しい線を引くために、烏口の先は常に研ぎ澄まされていなければなりません。
烏口の先を研ぐのも仕事の一つでした。
また、当時すでに製図用インクはありましたが、ほとんどの人は硯(すずり)で墨をすりました。
私たちも学生時代烏口を使って製図をしましたが、墨入れの際の緊張感は今でも覚えています。
むかしの青写真は、青地に白い線の陰画でした。
これを当時青焼きと呼んでいたのですが、アルカリに弱い欠点がありました。
そのため、現場でセメントを含んだ水がかかると、図面が読めなくなってしまうという怖さがあったのです。
いまの青写真は、白地に青い線の陽画で、昔ながらに青焼きと呼ばれていますが、現像技術の進歩により、図面が汚れる心配もなく、白地なので書きこみ、着色ができるようになりました。
青写真という言葉は、設計図という意味から未来図という意味に転じ、「将来の青写真ができた」などという使われ方をするのはご存知のことでしょう。
昨今はCADやCGが普及し、コンピュータ画面に向かってキーボードとマウスを使って図面を描く作業が主流となっています。
トレーサーという言葉は死語に近くなり、キャドオペと呼ばれる人達が台頭してきました。
図面の保管も、昔のような保管棚ではなくFDやCDになり、製図室の風景もだいぶ様変わりしました。
CADやCGによって、単なる図面作成だけではなく、コンピュータの中で擬似空間を作り上げ、構造物の性能チェックを行うという画期的な仕事が可能になりました。
バーチャルリアリティは、もはやゲームセンターの遊びだけではなく、建設業界にとって、なくてはならないものになろうとしているのです。