鳶は昔はモテモテでした!
火事と喧嘩は江戸の華、なぞと昔から申しますが、火事といえば、火消し。
火消しといえば、鳶のお兄さん方で、当時はかなりモテタらしいのです。
江戸の消防組織は万治年間(一六五八~一六六一)頃作られたと言われていますが、これを整備したのが、将軍吉宗の享保時代(一七一六~一七三六)で、大岡越前が町奉行に就任してからと言います。
江戸の火消し組織は、幕府直轄の定火消し(じょうびけし)、大名直属の大名火消し、町奉行統括の町火消しと、大きく三つに分類できます。
町火消しは、それぞれの町々によって編成された大組十番小組四十七組の消防組合でした。
大名火消しのなかで当時名を馳せていたのが、加賀藩お抱えの加賀鳶(かがとび)です。
もっとも、加賀鳶の歴史は相当古く、天和元年(一六八一)には幕府の命令で御三家に加え、加賀鳶の出動記録が残っています。
鳶が火消し役として適任であったことは、その職掌からして明らかで、当時の消防組織で先頭にたって働くのは鳶が主体でした。
また、当時の鳶の服装はきわめて派手で、羽織の表(紺地)を着て火消しに当たり、火消しが終わると派手な絵模様の裏を返して、見せびらかしながら町中を練り歩きました。
この火消し装束は当時のひとびとにもてはやされ、大店(おおだな)の若旦那が金に糸目をつけずに、浮世絵師に作らせた半纏(はんてん)なども残っています。
火消しの衣装は、江戸の「粋」の象徴だったのです。
大体において鳶には伊達者が多く、命をかけて纏(まとい)を振りかざし、鳶口(とびくち)を手に火事場に飛び込んでいく様子のいい男たちは、江戸の女たちの憧れの的でした。黙阿弥(もくあみ)の戯曲「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめのかがとび)の主人公、鳶梅吉の女房おすがなど、武家の娘でありながら、実家と縁を切ってまでも梅吉の女房になっています。火消しの人気の高さを物語る逸話でしょう。
加賀鳶は加賀藩お抱えの鳶でしたが、江戸の花町でのモテぶりは天下一品だったそうです。
<つづく>
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